散歩

2019/11/27

東京国立博物館 

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最終日直前の土曜日にトーハクへ正倉院の世界展を観に行く。

大変な混雑と聞いていたので、それなりに覚悟して行くも、一方で雨交じりの天気だから大丈夫かもとの期待も。

土曜は夜九時までの開館なので、午後四時近くに到着。 券売機付近に行列が見えぎょっとするが、待ち時間30分ほどとのこと。ひどいときには7ー80分待ちもあったようなので、我慢の範囲内。

それなりに並んではいるものの意外に回転はいいようで、20分ほどで開場に入ることができた。

 

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正倉院展は毎年奈良で開催されているが、東京での開催は令和天皇即位記念の特別展示。

目玉は世界にひとつしかないといわれる螺鈿紫檀五絃琵琶だが、残念ながら後期展示ではレプリカのみの出展。が、代わりに4弦の紫檀木画槽琵琶 が出展。(写真は螺鈿紫檀五絃琵琶、螺鈿紫檀阮咸のレプリカ)


写真でも見たことのない初見の琵琶。 派手さはないが、細工は螺鈿紫檀五絃琵琶に劣らず緻密で精巧、宝物の名にふさわしい出来で感動した。

また、布地類の出品も多く、臈纈染めや夾纈染めによる素朴な雰囲気の図柄は奈良時代のおおらかさが感じられた。

正倉院展といいつつ実は法隆寺献納宝物など東京国立博物館で見られる作品も多い。

全体的には作品はそれほど多くない印象。 混んではいるものの二重三重に人が囲んでいるというわけでもないので、しばらく待てば観たい作品の前に立てるので、それほどストレスは感じなかった。 

が、先日購入した単眼鏡が威力を発揮した。

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二時間半ほどかけて正倉院展を見終わった後、東洋館で開催中の「人・神・自然」展を観る。

常設展の一環としての特別展示。  カタールの王族アール・サーニ氏の個人コレクションとのこと。

人間が自分たちをどのように見てきたか。 現代の様に科学万能出ない時代、自分たちが経験する様々なこと…人が生まれること死ぬこと、死んだらどうなるのかということ、災害や思わぬ恵みは何を意味するのか。

理解出来ない事象や現象を神に結びつけ畏敬の念を持ってかかわってきた人々の想像力が作り出した素晴らしい作品群。

現代ではあらゆる事象や現象は科学的に証明されたり理由づけされるため、神を感じる頻度は過去に比べ各段に低くなっているが、大きな災害があるたびに「自然にはかなわない」と改めて気づかされる。 人間がすべてを認識しコントロールすることなど絶対に出来ない。  神を信じろとは言わないが、少なくともおごれる人間はもう少し「人間の及ばない何ものか」にたいしてもっと真摯であるべきだと、ふと考えさせられる展示だった。

四段だが、金の存在感とはすごいものだ。 他のどのような素材も劣化したり退色したり経年の変化は免れないが、金だけはその輝きを数千年変わることなく保ちつづける。 確かにこの金属に魅せられ、資産としての価値を持ち続けるというのも実感できる。 

 

 

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2019/11/16

仙人に会いに行く  弾丸京都・奈良  その2.5 夜ノ寧楽

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帰りのバスは奈良駅午後10時45分発ということで、夜の東大寺散策を企てた。

和辻哲郎の古寺巡禮の21章「〜月夜の東大寺南大門――当初の東大寺伽藍――月明の三月堂――N君の話」にあるような昼とはちがう夜の幽玄な雰囲気を体感したいという思いが以前からあったからだ。

まだ午後八時過ぎだというのに人はほとんどいない。 街路灯はあるものの道の奥は暗く、闇に引き込まれる錯覚に陥る。

時折聞こえる鹿のキーンという鳴き声が響く。

南大門に近づく。

月明かりがないため、常夜灯が届くところまでしか門の姿は見えず、あとは闇に溶けるようだ。

もちろん仁王像もおぼろげながらにしか見えない。

が、その大きさ、偉容はむしろ昼よりも強く感られる。

 

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門をくぐり正面の大仏殿を観るも全くの漆黒の世界。

しかたがないので、少し手前の二月堂の塚から坂道を上り、和辻絶賛の三月堂へ向かう。
写真ではフラッシュを適度に焚きながら撮影しているため建物がかなりはっきり見えるが実際はかなり暗い。
ぽつりぽつりと投光器のようなものがあるのだが、反射する壁がないため、光だけがはっきり見えるといった状態。

ここで不思議なことが起こった。

しばらく、坂を登ると投光器が三つ左手に光っている場所に来た。

こんな暗い場所に来ているのだと、家人に携帯電話の写メを送ろうとその光を撮ろうとしたとき…。

携帯電話のモニターに今撮ろうとしている光が映しだされている。

が、それとは別にちいさな光がふわふわと画面上を動いているではないか。

目をモニターから実際の風景に移してもその動く光はない。

もう一度モニターをみると光はいまだ動いている。

シャッターを切ると、その光は写真に確実に写っているのだ。

私の携帯ストラップは金属パーツがついているのでそこに光が乱反射しているのではないかと、ストラップをしっかり持って撮影し直しても同じ結果…。

目には見えないが携帯電話のカメラを通すと見える光。

本物の仙人に出会っていたのかもしれない。

怖いとかそういう感じはしないが、何となく「この先には来るな」と言われている気がしたので、携帯で撮った二枚の写真はそこで削除して東大寺をあとにした。

 

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道に鹿が飛び出した衝突事故が起こると聞くが、帰り道何度か遠くで急ブレーキをかける音がした。

自分が観ている前でも突然道路に飛び出す鹿がいた。 

まさか右左を確認するわけもないので、自動車は鹿が出るものだとおもって慎重に走るしかないだろう。

 

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まだ人気を感じる興福寺は建物のライティングがなされ、人工的ではあるが、夜らしい美しい姿を見せてくれた。

バスの集合時間30分前に奈良駅へ向かい充実した仙人に出会う旅を終えた。

追記
家に戻ってはじめて沖縄首里城火災のニュースを知った。

戦争中も木と紙と土でできた国・日本は焼夷弾によって大きな被害を受けた。
千数百年人から人へ伝世してきた国の宝もそのほとんどは木と紙と土でできている。
天災や人災、戦火によってこれまでに数多の宝が失われたことだろう。

現代の知恵をただ今生きている我々に向けるだけでなく、残された国の宝をしっかりと守り、未来につなげていくということにつかわれることを願ってやまない。

現代の科学の粋を極めても過去の文化を凌駕できない領域というのは確実にある。
そうした宝は守ることでしか未来に残すことはできないのだから。

今回限られた数ではあるが至高の宝を観た感動を是非未来の人々にも味わえるようにと切に思った。

 

 

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2019/11/08

仙人に会いに行く  弾丸京都・奈良  その2 奈良

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思ったより京都での滞在時間が長くかかってしまったため、近鉄大和西大寺駅でレンタサイクルを借りて西大寺近辺の寺社から奈良駅方面へ向かう予定を変更し、新大宮駅でおりて法華寺経由で奈良方面へ散歩することにした。

駅前から始まって、要所要所に法華寺への案内看板があるのだが、看板を観るたびにそこにある残り距離が多くなったり変わらなかったり…、いつ着くのか心配になってしまう。 奈良の地図を持っていかなかったのも悪いのだが。

にスマホも持っていないので、完全に何となくあたまに入っているおおよその位置関係だけでの散歩だ。

奈良に行くときは地図はなくとも和辻哲郎の「古寺巡禮」は持って行く。

これをバスや電車での移動中読みながらこれから行く場所への期待をふくらませるのが楽しい。

和辻が巡った頃の古都の空気は景色を含め全く変わってしまったに違いないが、歩くことによって、ビルの間から見える若草山や佐保川の流れ、遠くに見える東大寺の大仏殿など当時の景色の片鱗を感じることができる。

いにしえびとも徒歩や牛車、馬などでこうして行き来した姿を想像しながら歩く。

 

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さて、法華寺。

何と言ってもここで観たかったのは維摩居士像。 
居士とは釈迦の在家の弟子意味だが、彼は在家にありながら大乗仏教の奥義に達したと言われる人物で、文殊菩薩との問答が有名。 

彼も一種の仙人といえるだろう。

法隆寺五重塔にある塑像に次いで古く、天平末期の作といわれる。
木造乾漆像と思われていた肖像像だが、木造であることがわかり、二年ほど前に国の重要文化財から国宝に格上げされた。

乾漆像には脱活乾漆像と木造乾漆像があり、脱活乾漆は粘土で大まかな形を作り、それに麻布に漆を塗りつけたもので整形し、細かい木くずに漆を混ぜた粘土のような木屎漆で仕上げる。 
漆が硬化たら中の粘土は取り除き変形がないように木の棒材などで内側に骨組みを作る。

木造乾漆像は粘土の代わりに大まかな形を木で整形、細かい造作をさきの小屎漆をつかって仕上げる。

天平には木造仏はほとんどないためその希少性により国宝に格上げされたのだろう。

つくられ方はともかく、前々からこの維摩居士坐像は観たいと思っていた肖像。

多分架空の人物なのだろうが、今にも語りかけんとする表情の写実性は天平期ならではのリアリティ。
目の前に「その人がいる」感は天平作品ならでは。  

本当に素晴らしい作品だ。

期せずして秋のご開帳時期だったようで、光明皇后を模したと伝えられる秘仏十一面観音も観ることができた。
平安期の作品なので、光明皇后を模したというのは伝説なのだろうが、像高一メートルほどの檀像風の細かい仕上げ。
思ったより線香の煙でいぶされているのか、写真で見るよりは色が濃い印象。

信仰の対象なので比べては申し訳ないが、天平仏を観たあとに平安仏をみると神々しさのスタイルのようなものが感じられ、像から迫ってくるリアリティはあまり感じられなかった。 

あくまでも個人的感想。

本堂を出る前にもう一度維摩居士像をしっかりと目に焼き付ける。

 

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寺域には有名な空風呂があったり、わらぶき屋根の家があったり、素敵な庭があったり。
どこも綺麗に掃き整えられすがすがしい気持で寺を出た。

佐保路を東進し奈良町方面へ向かう。

 

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まずは興福寺。

落慶した中金堂を見学。 

とても綺麗。できたばっかりだから。

 

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南円堂・北円堂の同時開扉があったので、観たかったが拝観時間のタイムアップ、残念。

 

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さすがに歩き疲れたので商店街に行き、はじめてナタマメに出あった刀祢穀物店で新しい豆を入手後、喫茶店で一休み。

そのご夕食を軽く食べる。  

時刻午後7時半。

バス発車まであと3時間ほど。

つづく。

 

 

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2019/11/07

仙人に会いに行く  弾丸京都・奈良  その1 京都

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先週、急に思い立って夜行バスに乗り京都へ出かけた。

たった一日の行動時間を最も長く、有効に利用できるのはやはり夜行バスに限る。
前日の午後11時45分に池袋を出発。 翌朝5時25分に京都駅八条口到着。

夜明け前でまだ薄暗い。

目的地への時間午前9時30分にはまだ早い。

 

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せっかくなので、南方向へとテクテク歩いて伏見稲荷大社へと向かう。
京都の町は我が町と違い縦と横の道が直交し大変わかりやすいため、迷うことなく目的地へつくことができた。

6時過ぎに到着。もちろん社務所や店などは開いてはいないが、ぽつりぽつりと観光客が参拝している。
有名な写真スポットでは特に外国の方が丹念に構図を決めながら写真を撮っていた。

良く分からないまま鳥居をくぐって進むと何やら登山の様相を呈してきて、すっかり朝からハードな準備運動となった。

30ー40分ほど稲荷山をめぐり下山したのち、鴨川沿いを北上し、七条大橋を目指す。

 

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8時過ぎ過ぎに今回の目的地京都国立博物館に到着。
9時半開館のためもくろみ通り一番乗り。しかし、20分ほどすると段々に人々が集まってきて、開館30分前にはかなりの列になっていた。

「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展。

京都で開かれているのは知っていたもののさすが遠いなあ…などと思っていたのだが、NHKの「歴史秘話ヒストリア」を観ているうちにやっぱり行かずにはおれなかったという次第。

佐竹本については細かい解説はこちらを読んで頂きたい。

簡単にいうと二巻の絵巻物として伝世した最古にして至高の三十六歌仙絵。

これが大正時代に売り出されたものの、あまりに高価であったため巻物として購入できるものがおらず、やむを得ず三十七に分割し、分売された経歴の歌仙絵だ。

各所博物館蔵になったものは単品で展示されることもあるが、当時購入した人から別の人へと渡り、個人蔵のものなどは所有者も明かされず、なかなか目にいれることができない作品もおおい。

今回の展示のように30点ちかい作品が一堂にに集まることはおそらくこの先数十年ないのではないか。

今までも何点かは単体で観たことがあるのだが、歌仙絵の線の美しさ表情表現の巧みさは他の歌仙絵の追従を許さない感動的な作品と記憶していた。

今回はそれを何と30点近く観ることができるわけだ。 

 

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鑑賞券を購入し、荷物をロッカーに預け、真っ先に佐竹本のコーナーへと向かう。

朝一効果でほとんど鑑賞者がいないなか単眼鏡片手に裸眼・単眼鏡で作品を一通り鑑賞していく。
息を呑む繊細さ、線に全く迷いが感じられない。 

表情、仕草ほぼ人物画なのだが、その向こうにある世界が目に浮かぶようだ。 3センチほどの顔に込められた情報量の豊富さは驚異的と言える。

デザイン的にも大胆で素晴らしい。
わかりやすいところで言えば上図にある小野小町。

「色見えで移ろふものは世の中の心の花にぞありける」

ざっくり意訳すると、「心変わりされてしまった悲しみ」を歌ったもののようだが、
悲しさを表情ではなく後ろ姿で描くあたりが心憎い。
美しい十二単と乱れた髪の対比が悲しさをうまく表しているよう。

これに限らず、人物の表情、配置などで歌を印象づける手腕は驚くべきものだ。

他にも歌仙図はいくつか展示してあったが、佐竹本の質は確かに他を全く凌駕した唯一無二の存在だった。

本当に観に来て良かった。

 

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もう一つ、今回は特別展示とのことで常設の作品は観られないと思っていたのだが、京都国立博物館に来たら是非観たいと思っていた仏像が展示してありビックリ。

「宝誌和尚立像」

宝誌和尚についてはここを読んで頂きたいが、この像は、宇治拾遺集の「宝誌和尚影の事」の物語中、帝が宝誌和尚の肖像を描いてこいと三人の画家に命じ、画家たちが宝誌のもとにでむいて彼の顔を描こうとしたら「わたしの本当の顔はここにある」といって爪を立て顔を引き裂くと中から金色の菩薩が現れた…。という場面を彫ったものだ。

ともするとグロテスクな表現ではあるが、表のお顔も中のお顔も実にすましてやさしげに見えるところが心憎い。
ふと有名な六波羅蜜寺の空也上人像の「南無阿弥陀仏」を表す仏が6体口から出てくる表現が頭に浮かんだ。
昔の人は何ともイメージ力の豊かなひとたちのあつまりだったようである。

 

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充実の二時間強。

京都国立博物館をあとにした。

 

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その後七条通りを西に進み、東本願寺を参拝。
寺域のの周囲には私の心を見透かしたような言葉が…。

「どんなにたくさんのものが手に入っても満足しない私」

一体どうしたら良いのでしょうか?

そんな私は

「自分に欠けているものを嘆くのではなく、自分の手元にあるもので大いに楽しむものこそ賢者である」
(古代ギリシア哲学者・エピクテトス)

こんな人になれるよう努力しようと思った次第。

12時半過ぎ、奈良へ向けて近鉄電車に飛び乗る。


つづく。

 

 

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2019/08/01

トーハクの夏

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本年度初の真夏日にトーハクへ行く。

目的は「奈良四寺のみほとけ」。 
企画展ではなく、通常展示として室生寺、長谷寺、岡寺、安部文殊院の4寺からの出展。
博物館入り口すぐ左の11室、仏像ルームでの展示。

ふだんから博物館所蔵の仏像だけでなく寺の委託品や出開帳など、意外なほどいい仏さんが展示されているのだが、
今回は特別。 国宝の室生寺の釈迦坐像、十一面観音立像をはじめ重要文化財が目白押し。

いつもはがらんとした部屋なのだが、さすがに結構な人出。
特に外国からの観光客が多い。 アジアからの客だろうか各仏の前で手を合わせているこどもの姿も見受けられた。

一番人気は色絵の板光背が美しい室生寺十一面観音。 平安期の仏像らしい威厳にと慈愛に満ちた素晴らしい一品。
だが、個人的には室生寺釈迦如来坐像に感動。 
写真家・土門拳をして「日本一の美男子のほとけ 」と言わしめた日本人離れしたお顔。そして特徴的な衣文表現「 翻波式」の切れ味の良さ。どれをとっても心が震える仏様だ。

寺に置かれた状態ではどうしても光の具合だとか置かれている位置などによりよく見えない部分もあったりするが、こうした展示では表から裏までかなりの至近距離で拝観することができる。もちろん現地で観る雰囲気も好きなのだが、ディティールはこうした展示に限るだろう。

これは本当に夏休みトーハクからのビッグプレゼントと言えよう。 九月二十三日まで。

 

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国宝室では餓鬼草紙が出品。
昔はこうした絵を夜、揺らめくロウソクの炎のもと悪いことをしたらこうなるよと説教されたのだろうか、本当に恐ろしいイメージだ。 全く何を参考にしたのか描いた人の想像力と画力には敬服するばかり。 

 

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こどもの頃、家にあった美術書にまさにこの図が掲載されており、何度も見ては恐怖を感じていたのをふと思い出した。

 

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19世紀の博物図鑑「博物館魚譜 」。
グロテスクなオコゼ系の描写が素晴らしい。 鱗や模様への執着が素晴らしい。

 

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アイヌの幾何的模様はいつ見ても美しい。

 

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能面あれこれ。 
置いてあるだけでもある種の霊性を感じるが、これを舞台で縁者がつけて動いていたら本当にいのちが宿るのではないかと錯覚するような雰囲気を持っている。

 

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楽家3代道入、4代一入の黒茶碗。 このあたりは素人には何とも善し悪しの区別がつけられない分野だが、実際に緑の抹茶が入った姿を想像するとなるほど見た目にも美しくさぞお茶が美味しく頂けそうではある。

他にも本当にたくさんの美術品・芸術品が目白押し。 
私はあまり興味がないので写真にはないが、どうやら刀剣にも珍しい国宝が出ているようで、最近流行の刀剣女子はじめマニア風の老若男女が目をこらして抜き身を眺めていた。

 

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上野不忍池では蓮が盛りを迎えていた。

青青として大きな蓮の間から覗くピンクの花。 泥の池からスーッと伸びてパッと開く薄ピンクの花。
こんな花の上に仏様が鎮座していると創造した昔の人の感覚は素晴らしいね。

 

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2019/06/04

クリムト展 上野 東京都美術館

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来週の日曜美術館がクリムト特集とのことで、あわてて上野へ出かける。

以前にも書いたが「日曜美術館恐るべし」で、番組後は大体の企画展での集客がアップする(個人の感想)。

9時開館のつもりでオンタイムに到着。が、なんと9時30分開館。

 

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すでに100人ほど並んでいたが、会場内に入ってしまうとふわーっと人が分散して、ほぼストレスフリーの鑑賞ができた。

クリムトというと装飾的な表現の作品に目がいきがちだが、ドローイングの美しさも見逃せない。 
確かなデッサン力と表現力こそが彼の作品の基盤となっていることが良く分かるはずだ。

また、色彩表現も印象派的ではあるものの色の付け方というかタッチの入れ方が独特で、クリムトらしい柔らかいふわっとした女性の描き方は画集ではなかなかわからない部分。

どの作品も近くから、遠くから様々な角度で楽しみたい。

 

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葉の茂った桜の木の下には紫陽花の花が咲き始めておりキレイだ。

 

 

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2019/01/26

鷽替え神事

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過日NHKの番組「ブラタモリ」で太宰天満宮を紹介した回で<鷽替え神事>のことを知った。

鷽替え神事とは太宰府で菅原道真が蜂に襲われた時に鳥の鷽(うそ)の大群が救ったことを起源とする。
鷽の音が嘘に通じるところから「前年にあった凶事や災厄を嘘に替える」や「一年間についた嘘を誠に替える」ことを祈念する行事だ。
また、<鷽>の字が<学>の旧漢字<學>に似ていることから天神様とのつながりが深いと考えられているようだ。

テレビで観た木彫りの鷽の可愛さもあり、調べると全国の天神様でも鷽替え神事が行われていることを知り、「亀戸天神社」と「湯島天神」に出かけてみた。


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亀戸天神社の神事日程は1月24、25日の二日間。
24日午前9時過ぎに到着。 8時30分からの授与開始だが、すでに数百メートルの列ができていた。


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ここの鷽には大から小、懐中用まで11種類が用意されているが、すでに一番大きな鷽は売り切れ。 列から聞こえてくる話では例年大きいものからなくなっていくとのこと。 午前2時頃から並び出す人もあるらしい。

鷽替えなので本来はこの場所に来た者同士がそれぞれの鷽を交換することをしていたらしい。今では新しい鷽に替えるということで、前年の鷽をお返しするタナが用意され、そこに役目を終えた鷽たちが並んでいた。

2時間30分ほど並んで一番小さい鷽と懐中用を購入。 

ここの鷽には由来書が入っており、そこに通し番号が入っており、2日目の15時過ぎに抽選し当選すると鷽が彫ってある金の板が授与されると言うことだ。
かなり確率がひくいようだがこれに当選すると特に強運を呼び込むことができるらしい。 


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続いて湯島天神。
25日、こちらも午前9時頃到着。


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列の長さは100メートルほど。 こちらは鷽の種類が少ないせいか列の動きがはやい。 約30分ほどで授与を受けることができた。
木肌を活かした鷽は亀戸天神社と対照的。
こちらは大小2種類購入。


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天神様と言えば梅。
まだ時期が早いため花芽がついた状態がほとんどだが、チラホラと咲き始めた木があり美しい。

「サクラ切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という格言があるが、梅は切ることで樹形を整える。まだ花は咲かずとも、ジグザグに整えられた風情のある梅の木のフォルムを鑑賞するのもまた一興だ。

最後になったが、もちろん御朱印帳にも記帳していただく。
季節や、こうした神事にはそれを表す限定の印などが押されるため、一度頂いた神社仏閣でもバリエーション替えで楽しむことができる。

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2019/01/08

隅田川七福神めぐり  七福神御朱印帳

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あけましておめでとうございます。

新年早々昨年作った七福神御朱印帳をもって隅田川七福神めぐりにでかける。
東部伊勢崎線通称スカイツリーライン「堀切駅」に降り立つ。
駅を出るとすぐに順路を示す看板があるが、いろいろな制約からなのか途中どのように進むのかの案内はやや不明確なので地図は必要。

4日に出かけたのだそれほど人は多くなく、のんびりと歩き出す。


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最初は多聞寺・毘沙門天。
茅葺きの門が素敵な寺。


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1.5キロ程度歩き白鬚神社へ到着。
ここは寿老人神。


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白鬚神社からすぐのところに百花園・福禄寿尊。 

どうやら隅田川七福神発祥の地らしい。 
御朱印に「花やしき」とあるが、浅草の<あれ>とは関係なく、ここに360本もの梅の木を植えたことから、百花園の名がつく前に亀戸の梅屋敷に倣って「新梅屋敷」「花やしき」などと呼ばれていたことからのようだ。

御朱印を頂いたあと園内をひとまわり。 小さいながら様々な植物、所々に置かれた歌碑などが眼を楽しませてくれる。


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続いて長命寺・弁財天。

敷地裏手に名物「長命寺桜餅」の店がある。 一つの桜餅に3枚の塩漬け桜葉が使われた独特の桜餅。 お土産に購入。


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すぐそばに弘福寺・布袋尊。


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数百メートル歩くと三囲神社・大黒神・恵比寿神。
ここは二神がまつられているため、まわった社寺は6ということになる。
この神社の人出が一番だったが、全体的にのんびりした雰囲気で下町情緒を感じられるとてもよい七福神めぐりだった。


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スカイツリーラインというだけあって、道中いたる隙間からスカイツリーが見える。ひなびた木造建築と近代的な塔とのコラボレーションは意外に面白かったりする。


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昼食を取っていなかったので足を伸ばして浅草で何か食べようかとでてみたところ、隅田川あたりと打ってかわって人の波・波・波…。
一気に人酔いして空腹も吹っ飛んでしまったので、そのまま帰宅。


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早速七福神御朱印帳を正月飾りにそえてみる。
2019年幸せがやってきそうな予感。


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2018/11/26

Bruno Munari 展  世田谷美術館

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神奈川県立近代美術館葉山を皮切りに北九州市美術館、岩手県立美術館と巡回したブルーノムナーリ展が最終展示会場…世田谷美術館にやってきた。

6月に葉山でも観覧しているのだが、地元東京に来るとなればやはり観たくなってしまう。 そのくらい今回のムナーリの回顧展は内容が濃い。

今回、立て看板をみてあれ?何かがちがうなとおもったら、サブタイトルが「役に立たない機械をつくった男」となっている。
確か葉山では「こどもの心をもちつづけるということ」だったはず。

こどもの心を持ち続けるからこそ役に立たない機械を思いつくということも言えるだろうが、少々苦しい。 どのような事情があったのか気になるところであるが、個人的には一般的には役に立たない=意味のないととらえられかねないので、やはり「こどもの心をもちつづけるということ」のほうがよかったのでは?と感じた。

他からの干渉や束縛、影響を受けることなく考えたことを言葉にしたり形にすることというのは<こども>特権と言える。 

大人になるとそれこそ大人の事情やしがらみでこうした自由な発想に自ら鍵をかけ、全体を見渡した無難な行動をとるようになってしまう。

そうじゃないんだ。だからこそ些細なことでも自らの心に引っかかる感覚を常に大切にすることが大切なんだ…ムナーリの作品はそう私たちに問いかけているように思う。

その結果が「役に立たない機械」なわけで、そういう意味からもサブタイトル「こどもの心をもちつづけるということ」にはこだわって欲しかったなあ、と思った次第。


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葉山に比べ少々ぎゅうぎゅうに詰め込まれた印象はあるが、二度目でも十二分に満足できる内容。

土地柄かこども連れのお客さんが多かった。 むしろ情報に毒された大人たちよりも単純に子供たちのほうが楽しめる展覧会なのかも知れない。

美しい風景画や肖像画といったわかりやすい作品は皆無だが、「こういうの面白くない?」って頭に浮かんだアイディアを形にして観る人を巻き込んでいく力は決して「役に立たないことだけを考えた男ではない」ことがわかるはず。 

休日でもさほど混む展覧会ではないので、是非会場内を行ったり来たりしながらこどもの心の鍵をはずした男の世界を堪能して欲しい。

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2018/11/22

マルセル・デュシャンと日本美術

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先日快慶展との二本立てで観るつもりだったデュシャンと日本美術。
ビデオ不調とのことで、改めて昨日観覧。

フィラデルフィア美術館の好意でデュシャンの作品に関しては撮影OKという太っ腹な感じが嬉しい展覧会。

ただし、さほど混まない展覧会だからこそ可能なのであって、フェルメール展などでこれをやったなら怒号飛び交う修羅場になること必至なので、決してどこでも撮影可がよいわけではないと思うが。


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今回の展示ではデュシャンの代名詞「レディメイド」作品はさほど多くない代わりに初期からの油画やドローイング多い。

「面白ければいいじゃん」的な似非現代美術家とは一線を画した(どこかで観たような表現技法ではあるものの)技術の高さがうかがえる。


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こちら有名な「泉」。
とにかくこれを芸術であると宣言したことで、恐らく世の芸術家の足枷をはずすきっかけになったエポックメイキング的な作品。

既製品から作品を再構成するということで言うとパピエ・コレ(コラージュ)やアッサンブラージュ(コラージュの立体版)もある意味レディメイドといえるかも知れないが、これは便器そのもの…構成とか加筆・加工せずにただサインをすることで作品とするこれぞ純粋なレディメイド作品。

ちなみにこの泉、初出のオリジナルは行方知れず。
これは33年後のレプリカ。 レディーメイドはレプリカが多数あるのも特長。


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私はレディメイドがデュシャンの既成芸術に対するアンチテーゼ、ある種の遊びの延長ではないかとおもっている。

それに対して生涯をかけて思索に試作を重ねて取り組んだのがこの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも(通称・大ガラス)」〜「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ(通称・遺作)」だろう。

大ガラスは8年かけ作り続けたすえ、制作を放棄しそれからは趣味のチェスに明け暮れる日々を送るわけだが、その間に作品の表面に埃がたまり、搬送途中にガラスが割れるというアクシデントを経てようやく完成したとデュシャンに言わしめたという曰く付き作品。

この作品タイトルの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも」からして難解。 本人のコメントや研究者の解読も色々読めどもなかなか理解できない。 まあ、こういう作品はあれこれ理解しようとしないほうがよい。 理解したところで楽しめるわけでもないし。 作品からデュシャンという人を感じるのが正しい姿なんだと改めて思う。

ちなみに展示された大ガラスは東京大学駒場キャンパスの駒場博物館にある「東京バージョン」でもちろんデュシャンがお気に入りだったといううまい具合に上下対称に入ったガラスのひび割れはないキレイなレプリカ。

展覧会が終わればまた駒場博物館に戻るはずなので、開館していればいつでも無料で観ることが出来る。

(遺作についてはビデオほぼビデオ上映のみ)


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面白かったのは作家休眠中に没頭していたというチェスに関する資料。
デュシャンはプロ並みの腕を持っていたらしい。
良く分からないが、多分チェスの棋譜やら戦略や戦術に関する記録が残っている。 

自分自身を、自分の作品をどのように見せていくか、様々な条件から最善の手を打つための戦略はこうした積み重ねから生まれていたにちがいない。


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大ガラスを作るにあたってのメモや資料を集めた作品集グリーンボックス。

彼にとって作品を完成させると言うことは目的ではなく、結果なのだろうと思わせる。 彼にとって何より大切なのは自分が何を考え何をしようとしているかというプロセスなのだろう。


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こちらはデュシャン作品を一つのボックスに収めた作品集「トランクの中の箱(マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラビィの、または、による)」。

これはね、めっちゃめちゃ欲しい。 絶対買えないけど。


レプリカ売ってたの?知らなかった〜。


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会場構成にデュシャンがいっぱい。


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日本美術で目をひいた光悦作品。
蝶の柄が金銀泥で摺られているのだが泥が濃いのかデカルコマニーのように摺り面に微細な凹凸が出ていてそれが蝶の羽模様に見える。 

ただ、輪郭に泥がもれてエッジが甘くなっていたりしないので、あえてそうした模様を出したのではないかと推察。 

ただ、書のほうは光悦にしては抑揚が抑え気味でちょっと物足りない。生意気言うようですが。

舟橋蒔絵硯箱はさすがの存在感。 
形といい、漆と金粉によるベースの細やかさに鉛の舟橋、さらに銀の文字と恐らく本業の刀剣鑑定、研磨、ぬぐい(もちろん修復もしたに違いない)で得た様々な技術・技法を知り尽くしていた光悦だからこそ出来た作品だろう。

ボリュームはさほどないが人も少なく写真も撮れる。とても結構な展覧会だった。

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